日々の備忘録(読書録、その他雑記)

読んでいる/読んだ本に関する備忘録です

政治思想史入門(堤林剣) Day1

【目的】

・元々は、リベラル/保守、左翼/右翼、民主主義など分かるようで分からない(定義が曖昧な)概念について理解を深めるためにこの本に興味を持った

⇄しかし、どちらかというと西洋政治思想史を時系列順に説明した入門書で、本来の目的は果たせなそう…(でも、面白いから読む)

→本来の目的を果たすには、政治思想”史”ではなく、政治思想入門を読むべきなのか?(追って検討

 

【読書記録】

(この本に関しては、途中から記録開始)

・開始 78ページ 〜終了95ページ(全318ページ、注釈を除く

・2章 トゥキディデスソフィストを読了、3章プラトンを読み進めている

 

【散発的メモ】

トゥキディデスは、(悲劇詩人と異なり)人間に重きを置き、制御不能の神々の領域ではなく、観察可能な人間の営みを考察した上で、そこから一般化可能なパターンを抽出しようと試みた

人間性を不変のものとし、それ故に「歴史は繰り返す」反復性のものと捉えた

⇄不変性、反復性という点を著者が強調しているが、逆に近代思想などだとここの前提が崩れているのか?

→可能なら、構成要素を縦に並べた上で、誰それはこの項目はマルバツといった表にまとめられないか?(追って検討)

 

トゥキディデスは、判断力(グノーメー)を重視し、アテナイ市民を啓蒙するために歴史書を書いた

→ 特定の状況において、特定の立場の人がどのように行動したか、何が想定内/外であったか、それらを通じて帰結はどうなったか、それを学ぶことこそが意義

→偶然性(トゥケー)は、適切な判断力をもってしても予想しえなかった偶然の要素(ペストの蔓延等)として捉えられている

⇄恐らく、予想に反した偶然性を全て神様のせいにしてしまう悲劇詩人などとは、ここが違うということであろう

→たしかにペストやコロナ等の全くの偶然性はあるものの、情報の非対称性の話にも関係するかも知れない。ある情報を持たない誰かには合理的に思えた(what seems)判断が、実は情報を持っている誰か(時に、神や市場など、what is)には全く非合理である可能性など。

⇄ただし、経済学が想定する完全市場などでは、what is = what seemsという図式を前提としていると言い換えられる

 

・初期ソフィストプロタゴラスは、自然(ピュシス)状態では利己的・反社会的な人間を、法・慣習・約束(ノモス)教育によって陶冶していくことが大切と考え、神々のように人間には不可知な存在は重視しなかった

プロタゴラスよりも若い世代のソフィストは、民衆を啓蒙するよりも、迎合し扇動するデマゴーグに成り下がっており、プラトンらに厳しく批判されているとのこと

 

ようやくプラトン

 

プラトンはwhat isを重視し、what seemsを相対化した一方、ソフィストはwhat seemsを重視していたため、論敵とならざるをえなかった

 

・what mattersを(プラトンの場合、what seems→what isへ)変えようとする試み、moral transformationが一つのキーワードらしい

 

本日はここで終了

 

【Key Takeaway】

・全体として、これは"政治"思想なのか、それとも単なる思想なのか、イマイチ分からなかった。

⇄著者が言うには、通常、"政治"思想史という場合は、プラトンから始まり、それ以前の悲劇詩人、トゥキディデスソフィスト等は紹介されないことが多いとのこと

→つまり、明確に"政治"思想と銘打って、ジャンルを確立したのはプラトンが最初ということか?

→それ以前の思想家は、どちらかと言うと特定の世界観・世界認識(ここで言うコスモス?)を持った思想を通じて、(多くの場合、市民の啓蒙という形で)政治に関与していたが、純粋に「政治とはどうあるべきか」という直接的な問いかけにはなっていないように思える

→この点は、今後もよくよく吟味し、理解に努めることが必要