日々のつぶやき(21年2月20日 - 昼)
疲れた、頭が重い、目の奥が痛いので、自律神経が乱れている気がする
そこで、目黒の自然教育園を歩く
→勿論、都会の喧騒よりはマシなんだけど、それなりに人も歩いてるし、ただ歩いてるだけだと、頭の中を過去の失敗、未来への不安が占めており、全然気が休まらない
→全然自律神経が整っていないのを感じたので、どこか座って静かに座れる場所を探す
→そこで、ベンチがある「水鳥の池」でしばし心身を休ませてもらう
水鳥の池
→池の主に感謝しつつ、私の邪気を払うと共に、清らかな気を分けて頂いた
→頭の中のグルグルした状態、痛みはほぼ消えたと思う。感謝
→水にはスピリチュアルな意味があるというのと、守護自然霊が龍神の場合は水を好むと
⇄自分が龍神系なのか(はたまた、天狗、稲荷系ななのか)判別が難しいが、とりあえず、とてつもないレベルの雨男であること、飲み物(酒含む)が大好きであることなど、いくつか大きく当てはまるところがあるので、龍神系だと思っている
⇄普段はロジカル、損得感情が前面に出ているが、恥ずかしながら、自分は男の中ではかなりスピ好きだと思う(そろそろ、算命学も勉強しよう…)
さて、話を戻すと、
・何故、池・湖などが好きかと言うと、水面に映る景色(例えば、ルノワールの「睡蓮」もそうだし、東山魁夷の「緑響く」等)が好きと言うのがある
→水面に映る景色はかりそめの景色ではあるが、映った対象それ自身よりも美しく見える
→また、風が水面を揺らす時、風の強弱、向き等に応じて千変万化の表情を見せてくれる。風は芸術家だ
→過去、未来でなく今この瞬間に集中しよう。頭の中の景色ではなく、目の前の景色に心酔しよう。また、そうさせてくれる美しい景色に積極的に触れよう
・水鳥の池というのに、最初は水鳥がどこにいるのか分からなかった
→目を凝らしているうちに、遠くに一匹カモの動くのを見つけた。
⇄もう一匹、石仏のように動かないので、石なのかカモなのか分からないのがいたが、眠っていたようだ。起き上がると同時に、船出していった。
・この池にはいくつか倒木がある
→後のカップルの女性が「鹿に見える」と言い出した。たしかに、そう言われてみると、そう見えてきた
→同じものを見ても、「倒木」とラベルをつけて認識するか、「鹿のような形をした木」として認識するか、人によって感じ方は異なる。当たり前だけど、意識しないと忘れてしまうこと。
→人は自分の意識のバイアスを通してしか、世の中を見れない。目の前の木(事実)は厳然と存在していたとしても、水面(意識)に映る世界は人により違うし、風が吹けば景色は変わるということだ
・子供の笑顔
→子供が園内のパンフレットを落とし、それが池に落ちそうになっていた時、拾ってあげた
→人助けをしようという気持ちよりも、「池に落ちて池を汚したくない」という気持ちが強かった気がする。また、コロナもある中で、人が触ったパンフレットを取り戻したとして、本当に嬉しいのか?(受け取り拒否されるのでは?)という不安もあった
→お母さんの方は控えめな感じで「ありがとう」と言っていた(やはり、コロナリスク心配?子供だしね)が、拾ってもらった子供の方は「お礼を言いなさい」と言われて恥ずかしそうにはにかんでいた無邪気な顔が印象的だった(顔立ち的にハーフの子だった。父親の姿は見えなかったが)
→池のヒーリング効果もさることながら、あの無邪気な笑顔に救われたような気がする。
→無邪気さ、これはきっと自分が心の奥にしまい込んでしまったもの。無邪気になれれば、もっと人に好かれるのでは?
⇄しかし、一方で人に弱みを見せたくない自分もいる。人を助けることは嫌いではなけど、人に助けられるのは嫌いだ。何でも自分でやりたい、何でも一人でできるようになりたい、弱みを見せたらつけ込まれる、と心の奥底で人を疑っている。
⇄これを人嫌いと呼ぶけど、実は他人ではなく、自分自身を誰よりも嫌っているから(自信がない、自己肯定感が低い)、こういう風に考えるのでは?と言われたことがある。一理あるかも知れないが、どう治せば良いのかは分からないし、「弱みを人に見せましょう」とアドバイスされても、従えるかどうかも分からない
→これは、長い道のりだと思う。こういう考えに支配されだすと、また自律神経が乱れるので、やはり「今」に集中しよう
最後暗い話になってしまったが、当初ここに着いた時より、遥かに楽になった。感謝。
→帰る頃には辺りは静かになっていて、水鳥たちも倒木の上で楽しそうにくつろいでいた。こういう和やかな景色に触れていれば、私の荒んだ心も癒されるのだろうか?
自分の感情を吐露するのは恥ずかしいけど、溜め込むと毒だから洗い流して行こう。
さて、気分が良くなったので、武蔵小山にシードルを飲みに行こう。